奈良美智氏や村上隆氏をはじめ、数多くの現代作家を発信し続ける、小山登美夫ギャラリー 代表 小山登美夫 インタビュー!
TOMIO KOYAMA GALLERY小山登美夫氏「アート業界と広告」
奈良美智氏や村上隆氏をはじめ、数多くの現代美術アーティストを日本のみならず、海外へも精力的に発信し続ける、小山登美夫ギャラリー 代表 小山氏にお話を伺った。
アート業界がまだプレス力の弱い中で、PR力を最大限発揮されていたのが、小山さんという印象がありますが——
そういうのもありましたね。その理由は単純なんです。
明治に入った頃の日本美術界ってメタメタだったんですよ。なんとか外に出さないといけないって、万博に出したり、輸出をしたりして、外貨を稼ぐときだったんですね。そんな最後に岡倉天心が大観とか春草を連れて行って、ボストンやニューヨークで売ったじゃないですか。売れたんです。でも、それがちょうど日露戦争に勝った年なんですよ。それ以降ころっと変わった。もう外貨なんか必要ない。これはすごく大雑把にいうと、日露戦争に勝った年から、第二次世界大戦の敗戦も飛び越えて、バブルの崩壊のときまで、日本の美術は内需で持ったというのが僕の推論なんです。そういった意味で、日本の人たちは美術が大好きで、日本の美術だけでなくて、昔から中国の美術、韓国の美術は絶え間なく取り入れてきた国ですよね。
それが明治以降になるとヨーロッパのものとか、戦後になるとアメリカのものがいっぱい入ってきて、僕らのときには、戦前の財閥のお金持ちがいた時代とは変わって、何が美術を支えたかというと、美術館というシステムなんですよ。
戦後1952年には近代美術館ができて、それから公的なコレクションを始めていったんですよね。予算がついてくる美術館が日本各地にできるじゃないですか。世界と比べることができないほど多くの美術館が国中にできていって、予算規模からいうと、税金で美術を買う価格だけでも計り知れないものがあったと思いますね。僕が美術の世界に入りはじめたのは、その渦中だったんですよ。
まずは、西村画廊というところで美術館の人達に多く売っていたので、そのお手伝いをしました。美術館がメインにあって、その他にも美術の好きな人たちに売っていてとても勉強になりました。今ほどオークションが盛んではなかったですし、アートフェアも盛んではなかったんですけど、僕のいた西村画廊の、西村さんはもともと広告代理店をやっていた方で、ちょっとずつプレスをやりはじめたんですよ。
「芸術新潮」とか、「美術手帖」とかに出していって。そのあと白石コンテンポラリーアートというところに移りました。そこの白石さんは、フジテレビギャラリーっていうもう少し規模の大きなギャラリーにいて展覧会を開催したりしていたので、一般誌に対して集客をするということを目的とした広報が大事だと思っていたんですよね。NICAFっていう、ニッポンインターナショナルコンテンポラリーフェスティバルっていうアートフェア東京の前身ようなものを、そのときは横浜でやっていて、その立ち上げを白石さんがやったんです。
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