伝説の艦船画家 上田毅八郎 × 株式会社タミヤ代表取締役会長 田宮俊作 インタビュー!!世代を超へ親しまれ続けるタミヤの魅力

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 訓練に訓練を重ねた10年間  Photo Gallery ▶

 

「家業のことや、絵のことを考えると焦燥感ばかりでした。」

 

これから先のことを考えると怖かったという彼は、毎日書道の先生に特訓してもらい、家業である塗装屋を手伝えるようにまでなった。しかし訓練が終わることはなかった。

 

「あの頃は毎晩仕事が終わった後、夜も寝ないで戦争のときに見た軍艦やなにかの絵をとにかくひたすら描き続けたなあ……幼い頃から戦闘機や軍艦が好きでね、雑誌に載っている絵を模写していたんです。初めて船に乗ったときは、任務もそっちのけで船内のあちこちを見て回って、軍事郵便用のハガキにスケッチしていました。隊長よりも船に関する知識は豊富でしたよ。だから納得いく軍艦の絵が描けるようになるまで10年はかかりました。」

 

そんなとき、上田氏の元へ一本の電話が入った。田宮模型の田宮俊作氏からであった。

 

「箱絵の魅力に刺激され、大人でも子供でも艦船模型を作る意欲が湧くのではないか」と考えた田宮氏が、軍艦の絵が上手いと評判だった上田氏に自ら電話をかけたのだ。上田氏と田宮氏はご近所同士で顔見知りだったそうなのがだ、上田氏は近寄りがたいくらい性格の激しい人であったため、田宮氏にとって、決して気軽に頼める相手ではなかったそうだ。

しかし、上田氏は、艦船だけでなく、デルタクラブという模型クラブに所属するくらい模型も好きだった。その上、田宮氏の熱い思いを感じ、上田氏はふたつ返事で艦船模型のパッケージ画を担当することとなった。

 [画像]株式会社タミヤ 代表取締役会長 田宮俊作氏  

 

だが1959年、当時タミヤは、木製模型からプラモデルの製造に踏み切る決断をしたばかり。その上、火災など度重なる災難により、多大な借金を抱えていた。そのため、他の模型メーカーが次々にプラモデルを手がけるようになっても、すぐには切り替えることが出来ず、従来通りひのき、ほお、かつらなどの木材を使って模型を作らなければならなかった。もちろん、木製模型の売れ行きは低迷し、従業員も不安を感じ、ひとりふたりと去り、ついに企画設計室には現会長の田宮氏ひとりになってしまった。

右も左もわからないまま始まったプラモデル製造、とにかくアメリカのプラモデルの設計図を参考にしては黙々と研究をし続けた。その作業は帰宅後も続いた。

 

 

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